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『大谷往来』には節があった

2009/05/18 05:33/『大谷往来』には節があった
〈慶応生まれのばあさんも話していた〉
 私は、大正十一年生まれで、『大谷往来』を覚えようと思ったのは、昭和三十六、七年頃だ。小学生の頃、俺のばあさん(慶応生まれ)が「かんかけのかぎわらび」なんて言っているのを聞いた事がある。でもばあさんは大谷生まれでないので、こっちに来て覚えてのだろう。

〈久蔵さんのを聞いて覚えようと思った〉
 長岡久蔵さんが亡くなったのは昭和三十八年だから、その前に何度か久蔵さんから聞いて、俺の家にも原本があったので、それにカナふって覚えたんだな。
 久蔵さん(明治十六年生まれ)がどうして覚えたのか知らないが、確かに節があった。かなり強い節をつけて語った浪曲みたいな節だった。藁仕事をしながら、語った何人かの人が聞いて覚えているのだと思う。
 いつ頃から久蔵さんが語ったのかは知らないが、俺の家では何回か聞いた。

〈時々語ったが、あまり興味がないようだった〉
 俺の家に何故原本があったかは分からないが、残っていたのだ。同じように百姓の道具のことを書いた本も残っている。
 カナをふってから頑張って覚えた。だから、語ったりしたのは昭和三十六、七年以降だ。長寿クラブの総会なんかでも酒が入ると語ったが、そう多かったことはないと思う。でも、誰も興味がなかったようだ。
 昭和四十年代、朝日ヌルマタ沢に木の伐採に行っていたので、その製材所で酒が入ると語ったりもした。でも、興味を持ってくれたのは、白田正蔵さん、鈴木幸次郎さんなどほんの少しの人だった。

〈この文章は覚えないと駄目だ〉
 昭和四十八年に大谷小百周年で展示してから、たまに原本を借りにくる人がいた。でも、借りに来て写すだけじゃ駄目だ。覚えなくては駄目だと言った。この文章は、覚えるのに良い文章だ。文句も良いし、五七調だし、本当に美しい文章だ。文章が良かったので覚えたのだろうな。 
 この文章を読んでいるときは、作者彦七はきっと大谷のこの辺に座って作ったのだ。あの辺から見て詠んだのだと考えて読んでいる。すべての場所には行ったことはないが、大谷のことはよく知っているので、この文章の風景が目に浮かぶようによく分かる。

〈少し違うところもある〉
 私の覚えているのと、今の解釈と違うところもある。解釈はいろいろあるし、原本もいくつかあるので何とも言えないが、最後のところは、作者は大谷を回って帰ってきて、家に着いて考えてみると、すべてのことが夢のようだと言ってるのではないだろうか。 
 でもとにかく、こんな機会によって『大谷往来』が、多くの人に知ってもらったのは嬉しい。もう少し若かったら、もっと正確に語ることができたのだが、今は少し不自由で満足のいく語りができなかった。
 昔、堀さんと、この『大谷往来』の文章をもっと多くの人に知ってもらいたいと話し合ったことがあるが、今実現して嬉しい。

お話 和田新五郎さん(大谷浦小路)
※平成9年(1997)大谷往来シンポジウムにて
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