あさひまちエコミュージアム|山形県朝日町見学情報データベース
【見学会】朝日町の義経伝説を訪ねる 参加者募集中!2026/05/23 16:05 (C) 朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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※当サイトの全ての情報は、精通する朝日町民、朝日町教育委員会、学術者のみな様の情報をもとに、朝日町エコミュージアムルームの業務を受託するNPO法人朝日町エコミュージアム協会がまとめたものです。朝日町の観光や郷土学にお役立て下さい。
所在地 / 〒990-1442 山形県西村山郡朝日町宮宿2265 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」エコミュージアムルーム内 TEL0237-67-2128(月・木休み)
※大黒様写真/撮影 萩原尚季さん(コロン)
※デザイン/サポート by ステップアップコミュニケーションズ
合計9,913,099件 (2010.02.24〜) 記事911頁 今日433件 昨日6039件 [login] Powered by samidare
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※大黒様写真/撮影 萩原尚季さん(コロン)
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北の方が子を産んだのは朝日町!?
朝日町の義経伝説を訪ねる
朝日町には二つの源義経に関わる伝説が残っています。一つは義経の正妻北の方(郷御前)が出産したという「子なし沢」。もう一つは大行院に宿代の代わりに置いていったという弁慶の「笈」です。
もしかしたら一行は、北の方の産後の回復を待つためにしばらく大行院に滞在していたのかもしれません。また、他市町の伝説も加味すれば内陸ルート説もありえるように思えます。
子なし沢の現場を検証し、大沼では宮司の最上俊一郎さんを講師にお話をうかがい、義経らも参拝したであろう浮嶋稲荷神社やお島様(浮島)を訪ね、最後に大行院にて弁慶の笈を拝見します。
日 時 7月5日(日)午前9時半より
集合場所 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」エコルーム前
参加料金 500円 定員 20人
講 師 最上俊一郎氏(浮嶋稲荷神社宮司)
道先案内 安藤竜二(朝日町エコミュージアム案内人)
●当日は各自の車で移動します。なるべく乗り合わせていただけましたら幸いです。
主 催 朝日町エコミュージアム案内人の会
申し込み エコルーム 電話0237-67-2128
→ メールでお申し込みはこちら
→ チラシはこちらからダウンロードできます
(参考)
→ 子なし沢
→ 弁慶の笈
■内陸ルートの信憑性について
平泉に向かった義経一行は、実は最上川を遡って瀬見温泉に向かったのではなく、新潟から米沢→長井→朝日→河北→舟形へと北上していったと思われます。内陸にも伝説があるからです。
[米沢]では、死なせてしまった家臣の佐藤兄弟(継信・忠信)のお母さんに詫びて弔うために常信庵に立ち寄り伽羅木を植えています。
[長井]では、弁慶の娘が急病で動けなくなり宿に置かれ、宿主に育てられその息子と結婚し、のちに弁慶を弔ったという石の塔が残っています。
[朝日町]では、北の方(郷御前)がくぬぎ平の棚田近くで子を産み、大沼大行院に宿代として弁慶が自分の笈を置いていきました。
[河北]では、弁慶が沢に大きな石を投げ入れて橋を作って渡りました。
[舟形]では、最上川から上陸したのは新庄本合海ではなく、わざわざ舟形まで登ってきて船を下り(あるいは地獄谷を通って)、新庄にまた北上したと伝わります。
舟形説も内陸を北上したルートで考えれば辻褄があいます。なにより雪解けの激流最上川を船で遡るなんてとても考えられません。
米沢では晩秋に、長井でも秋に来たと伝わります。おそらく、元々大沼大行院で出産して冬を越す予定だったため、急病の弁慶の娘を長井に置いてまで急ぐ必要があったのでしょう。ところが大沼を目前にして生まれてしまったというわけです。大行院で母子ともに元気になった翌春に、平泉に向けて再び歩き始めた…。きっと一冬もお世話になったお礼として笈を置いていったのでしょう。弁慶の笈はあちこちにあるようですが「武蔵」と梵字で書かれてあるのは朝日町だけです。
米沢からおよそ30kmごとに伝説が残っているのも、1日で歩いた距離が30kmで宿泊した場所ごとに伝説が残されたような気もいたします。
そして、新潟から朝日町までは、北条執権時代までは存在した朝日岳信仰の修験者たちが護り案内していたのだと思われます。きちんとした伝説が残らなかったのは、匿ったことが鎌倉幕府にバレないよう秘密にしていたからでしょう。
試しにAIに聞いてみたら、「あえて最上川を遡上したという情報を流し、鎌倉側の目を川(水上ルート)に釘付けにし、その隙に本隊を陸路で安全に通過させるというのは、秀衡が仕掛けた極めて高度な情報戦(諜報作戦)であったと考えるのが、歴史的にも最も辻褄が合います」と答えてくれました。
ただ、その陸路とは「最上川沿いの険しい山道」だと。それではカモフラージュにはならないですよね。陸路はきっと内陸ルートだったのでしょう。
まずは、朝日町の義経伝説を一緒に検証してみませんか!
ご参加お待ちしています。先着20人なのでお早めに^^
(安藤竜二)
■内陸ルートに伝わる義経伝説(ネットより抜粋)
●正應山 常信庵 / 米沢市
入口に「源九郎判官義経公接待遺跡」の標柱が立っている。源義経が奥州藤原氏を頼りに逃亡する途中、この寺院に立ち寄ったとする。一行が鼠ヶ関(庄内)を避けて内陸に入り、羽前米沢に立ち寄り、自分の楯となって討死した忠臣、佐藤継信・忠信ゆかりのこの寺に立ち寄り、母の梅唇尼に兄弟を死なせてしまったことを詫びたという。そして「きゃらぼく」の木を植えて菩提を弔ったとされる。梅唇尼の名が記されたミイラも発見され万年塔を建て供養している。境内には、正信。継信、忠信親子を祀った三尊社がある。
●塔様 / 長井市成田
文治2年(1186年)の秋、羽黒詣りの七人の山伏が民家に宿を願い泊めて貰った。ところが、この一行の中の娘が急に病気になり、仕方なく娘をしばらく宿に泊めて貰うように頼んだところ、その家の人達は心良く引き受けてくれた。それから3年後、義経が主従ともども討死したことがこの地方まで伝わった。これを聞いたかの娘は家の主人に「あの山伏一行は義経主従であって、その中で背の高いヒゲをはやした人が武蔵坊弁慶という者で、私は弁慶の娘」と打ち明けた。その証拠として、日の丸の軍扇を出し、これは弁慶が義経の家来になった時に貰ったもので、父がここを出発するとき形見に渡されたものであると話した。これを聞いたその家の人々は大いに驚き、今まで以上に娘を大切にした。後に娘は、この家の息子の嫁となって子孫大いに栄えたといわれる。その家は現在の鈴木平左衛門家の先祖。この娘夫婦が、亡くなった父弁慶の霊を弔うために供養塔を建て、大法要を行ったといわれている。
●子なし沢と弁慶の笈 / 朝日町八ツ沼・大沼
義経は弁慶らを連れて奥州平泉に逃れる途中、朝日町を通ったという。ところが北の方が産気づいて弁慶大いに困った。ふと見ると道の傍に松の大木があり、その下にはきれいな水が流れていた。北の方はここで子を産んだ。その先の大沼には弁慶が修験道を伝ってきて大行院に泊まり、宿代の代わりに笈を置いていった伝説がある。扉の裏に凡字で、武蔵坊弁慶の「武蔵」と書いてある。
●三ツ川一橋 / 河北町北谷地
昔、法師川は三筋に分かれて流れていた。義経がここにさしかかった時、弁慶が大石を担ぎ三本に流れているところに落として橋を架けた。「三ツ川一橋」と呼ばれる由縁。その時担いだ石に弁慶の手の跡が残ったと言われており、「耕地整理記念碑」の台座になっているのがその石だと語りつがれている。
●源義経伝説 / 舟形町
「義経記」では会津の津(本合海)から亀割山を越え平泉に向かったとされますが、舟形町ではそれとは異なる伝承が伝わっている。
・猿羽根村近くで宿泊し、北の方が産着を絹で縫った、義経一行の破れた着物を縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。・義経一行が川岸で穴(窪)を掘りそこに水を溜め汚れた手足を洗った。
・義経一行が獅子口で休憩した。・獅子口の対岸にある熊野神社で、出羽三山に代参した弁慶と合流した。
・実栗屋から毒沢へ笈を利用して渡ったので「笈渡」という地名の由来となりそれが転じて「折渡」となった。
・上記の笈を乾かした松は「笈掛の松」と呼ばれた。・一関集落には関所がある義経一行を厳しく詮議した。
・義経一行は伊藤半平衛から粟3升借り、明治時代までその証文が残っていた。
・義経一行は舟形から大平、稲先(ウサギシッタイ)、市野々、休場、亀割山へと向かっていった。
・舟形から北に進路をとり夜道を進み明け方となり一番鶏が鳴いたので鳥越(新庄市)と呼ぶようになった。
■引用ページはこちら
→ 正應山 常信庵(米沢市)
→ 塔様(長井市)
→ 三ツ川一橋(河北町)
→ 源義経伝説(舟形町)