この木造薬師如来立像は、像高が100センチメートル。材質構造は、桂材・一木割矧ぎ造りで、彫眼・漆箔仕上げである。頭・体の根幹部は、通して両耳の後ろを通る線で前後に割矧ぎ、三道下で頭部を割離す。これに左右の体側部各一材を両肩部で矧ぎつけ、袖を含め体幹部と共木で彫出す。両手首から先、両足先は、後補檜材で矧ぎつけている。襟際以下の背面材や、両耳朶も後世に補修したもので、漆箔も後補である。
形状は、頭部が螺髪切子型で彫出し、肉髻は珠、白ごうは相を表わさない。納衣は両肩を覆い、左腕は垂下し、掌(たなごころ)を上にして薬つぼを持ち、右腕は屈臀(くっぴ)、掌を前にして立て五指を開き、やや左足先を外に開いて直立した形をとる。肩幅が広く堂々とした正面観をあらわし、衣文も流れるように美しいこの像は、願容がきわめて都ぶりのすぐれた藤原様式の典型的な表情である。
製作年代は十二世紀の比較的早い時期(藤原時代後期)と推定され、作者は地方の優れた仏師で、平安時代中期の京都の有名な仏師・定朝(〜1057)以後の影響をその表情に受けついでいる。
薬師如来を祀っている東善(漸)院瑠璃堂は、羽黒山修験の末寺で、豊龍神社を祀る、もと東守寺の配下寺であることが、この御堂に保存されている棟札にて知ることができる。棟札には、宝永五年(1708)四月、造立主は不動院・東善院とあり、供養導師は東守寺永学と記されている。
史実としては疑わしいが、この薬師如来は天智天皇の時代(662〜71)異国の仏師父子が都の誓願寺の本尊阿弥陀如来を造立した際、その余材を持って医王仏(薬師如来)の尊像を作って、東善院に納めたと『宗古録』に書かれている。
しかし何よりも雄弁に朝日町の藤原文化を物語ってくれるのは、藤原時代に地方仏師の手による薬師如来立像が存在することである。
昭和五十年 朝日町指定有形文化財
平成三年 京都・財団法人美術院にて修理
平成五年 山形県指定有形文化財
ここに述べた事項は、群馬県立女子大学の麻木脩平氏の調書と財団法人美術院の解説書、並びに『朝日町の歴史』より紹介してみた。
2009.04.12:朝日町エコミュージアム協会