三十三坊は、昔の修験者が泊まったところで、それぞれに名前が付いている。この「坊」というのも、今の神主みたいなもので、昔、熊野山とか月山とかに泊まって、修行して、院とか坊の資格をもらったんだ。この頃では、泊めていたのは二〜三軒だけど、昔は三十三軒みな泊めていたわけだから、かなりの人が泊まれたんだな。昔は、日本海側から漁師の人がいっぱいお参りに来た。それは海上安全で、船が沈まないようにだ。浮島は沈まないからね。うちでも、二十人の上は泊めた記憶があるな。白装束で来て、お精進料理しか食べなかったな。
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主)
浮嶋稲荷神社は、役の行者と覚道が創設して、一院三十三坊があった。私の家もその坊のひとつであった。四代前に柴橋から嫁に来た人の持参金で浮島神社神輿を寄付したごとにより、資格を得て、私の家で行者を泊めるようになった。最上家では庄内の人を、私の家では福島の人を泊めた。浮島というイメージが船が沈まねという縁起を生んで、海岸に住んでいる漁師の人がたくさん来て宿泊した。私の家では、昭和十年頃まで、坊を営むことで生計を立てた。行者を、御行様、御行様と呼び、家の前に玄関が二つ、脇に一つと、玄関が三つあった。
屋根もピーンとした立派な屋根だった。食事には精進料理を出して家の所得も相当なものだった。
その当時の部落の繁栄を再現するためにも、浮嶋神社を活かしていかなければならない。その当時、浮嶋神社を経由して朝日に出かける行者と月山に出かける行者がいたが、私の家の使用人が先達となり案内した。その修験者の道を復活すったいという話もあり、
古くなったお守りなどを燃やす場所として復活したらなんたべという話が、現在出ている。
お話:白田隆さん(浮島を守る会会長)
2009.04.15:朝日町エコミュージアム協会