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五百川峡谷 開削の歴史
 最上川の荒砥・左沢間は五百川峡谷と呼ばれ、急流で難所が多い上に、昔は峡谷入り口の菖蒲(白鷹町)に黒滝という丈余(約三メートル)の滝があり、船の運航ができなかった。従って米沢藩の全ての物資の藩外輸送は山越えを強いられ、幕領の年貢米は二井宿峠か板谷峠越えで福島まで馬で運び、阿武隈川を船で下り、東回りの回船で江戸まで運んだので、費用がかさんだほか荷痛みがあった。
 元禄(約三百年前)の頃、米沢藩の御用商人西村久左衛門は、この黒滝をはじめとする五百川峡谷の難所を開削すれば、荷を藩内から船だけで酒田まで下すことができ、当時河村瑞賢により開発されていた日本海西廻り航路に結びつかれば、航路は下関・瀬戸内海・大阪と長くなるがきわめて安全に荷痛みもなく江戸まで運べると考えた。
 西村の本業は青苧商だったが、幸い縁戚に角倉了似という大土木実業家がおり、その援助で間兵衛という優秀な手代を譲り受け、綿密な調査をさせた上、船大工は大石田から、船鍛冶は越後の飛鳥井村から呼び寄せて準備し、藩および幕府の許可を取り付け、元禄六年(一六九三)開削に取り掛かった。
 その工法は、川の流れを迂回させて滝を干上がらせ、岩の上で焚き火をして岩を焼き、川水を掛けて岩を割ったり、岩盤の上に高い櫓を建て、重い鉄錐をロープで縛り、大勢で吊り上げて落とす「どん突き工法」を用いたりした。工期は一年三ヶ月、総工費一万七千両(現在で一七億)の巨費を投じて翌七年九月開通。間兵衛船と呼ばれた船は米沢藩米を積んで、五百川峡谷を矢のように下り酒田まで通船したのである。この上下の通船がもたらした恩恵ははかり知れず、まさに水運の革命といえるものだった。
 しかし昔のことゆえ、工事の成功や船の安全には神仏の加護を祈ることが第一で、川沿いに神仏に堂宇の再建や鰐口の奉納などの安全祈願が行われた。また、この舟運を持続するため、菖蒲と左沢には船陣屋を置き通船を管理し、途中には通船差配役を置いて、船を曳き上げる綱手道の整備や難破船の濡れ米の処理などをさせた。
 五百川峡谷の朝日町域には大滝瀬・どうぎ瀬・三階滝などの難所が多くあり、しばしば船が難破し、その都度濡れ米を引き揚げた。これには川沿いの百姓が頼まれ、引き揚げた米は払い受けて餅をついたそうで「かぶたれ餅」と言われた。
 しかし、この舟運は後に訳あって西村から藩運営に変わった。そして後年、陸上交通の発達でその役目を終えた。綱手道も今では殆ど姿を消し見られなくなった。

お話 : 若月啓二さん(西船渡) 平成18年

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

2009.04.16:朝日町エコミュージアム協会

12.五百川峡谷エリア:詳細について

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