〈大竹國治さんのこと〉
國治じいさんは、明治十三年生まれ、大地主の息子で昔は福島の蚕業学校なんか行ってたし、和合の信用組合なんかも作ったり、大正六年からずっと村会議員や町会議員もしていた。昭和十八年前後には宮宿町長なんかもしていたから普通の百姓の人ではなかったらしい。昔は、養蚕の種屋をしていた。この家も総二階で蚕を二階なんかに飼っていたのだろう。種屋は良い種を見つけるのが仕事で、この家の造りもこの土間も広いのは売り買いしていたからだな。
〈國治さんと考古学〉
國治さん自身は、考古学的なものは何も残していないが、書については興味があったえらしい。歌お膳や何かにも詳しくて近さん(國治さんの息子)が結婚する時は、お膳とか何か輪島の名人に注文していろいろなお花とか鳥とか描いてあって、一枚ずつ違う文様のを取り寄せたりしたこともあった。
東京に行ったときも、三越からお土産を買ってくるような人だった。良いものを見る目はあったのだろう。私は詳しく分からないが、いろいろなものに興味を持った人だったらしい。昭和十二年に明鏡橋の工事があって、その時に自分の畑から出た石を見つけて二階の部屋にとっておいた。二階は、滅多に人の行かないところだから置いておくには良かった。これが大隅の旧石器だった。
〈田原眞稔さんとの関係〉
國治さんの妹が大井沢に嫁いでいて、その旦那さんは校長先生なんかした人で、その子供が倫子さんで田原さんの奥さんだ。だから、仲人なんかもしたと聞いた。倫子さんの実家は大井沢で、あの当時だと冬は行くのが大変で正月なんかこの家によく遊びに来ていた。それで田原さんが考古学に興味があるからというので見せたのだろう。だからきっと、國治さんは大隅で見つけた石が、石器と分かっていて二階にとっておいたのじゃないか。
〈潤次郎さんも発見した〉
潤次郎さんは昭和六十二年五十四歳で亡くなったが、区長もしたし森林組合なんかの仕事もしたし、教育委員も務めたんだ。昭和五十四年にまた道路の改修工事があって国道二八七号線の工事をした。この時に潤次郎さんも畑に毎日のように見に行って、自分の畑が削られるときに掘ってまた石器を一個発見したのだな。この石器発見で、はじめて大隅遺跡が発掘された。調査は、この時が初めてらしい。三個くらい見つかったと聞いている。
〈國治さんは偉かった〉
國治じいさんが偉いと思うのは、戦争に負けてこれからは今までと違って生きなくてはいけないというので、大きな屋敷のこの家のお坪を少し壊してりんごを植えたり柿を植えたりした。この気構えはなかなかできないな。自分が大事にしてきたお坪壊すのだから。その変化は偉かった。雑木林もりんごに換えた。今もそのままりんごを作っている
〈この土地の良さ〉
ここの大隅の場所のことだけど、この間全国を地質調査に回っているという人が来て、ここは風景も良いし三メートル下は岩盤で地震に強い。排水も良いし井戸水も枯れない良いところだ。ご先祖さんは、良い所を探したなと誉めていた。こんな良い所だから大昔から人も住んでいたのだろう。最上川の段丘には遺跡が多いということらしい。そこは住むにも良いところだ。
〈大隅の旧石器のこと〉
大隅の旧石器が見つかって、田原さん達が研究したのだけど、長い間放っておかれた。これだけ価値のあるものだと思う人が少なかったのだろう。國治じいさんは、石器は貴重なものであれば私有化してはならない。社会へ提供するべきだといって、全部あげたと聞いている。だから町でこういうものを大切にしてもらえたら、國治じいさんも喜ぶだろう。
お話 : 大竹敦さん
2009.04.19:朝日町エコミュージアム協会