〈幸運の重なった発見〉
大隅遺跡については、本当にいろいろな幸運が重なって起こったのだと思う。明鏡橋の工事、大竹國治さんの発見、田原眞稔さんへの紹介、そして私が田原さんのを見せてもらって実測図を書いた。さらに、「縄紋」第三集に「粗石器に関して」として載せたことなど、幸運が次から次へと続いたのが大きな原因だと思う。
〈田原さんの指導があったからこそ〉
私が「縄紋」に書いたときは、まだ十九歳で論文の書き方も知らなかったし、どういった説得で論を進めていったらいいのかも分からなかった。しかし、私は石器に興味があったので、いろいろな外国の文献も読んでいたのと、田原眞稔さんという考古学についての専門家が側にいたので、田原さんの助言で可能になったと思う。もともと石器自体も大竹さんから田原さん自身にお渡しになったもので、私の所有ではなかった。だから、この研究をするには、私が田原さん宅に伺って勉強させてもらいながら実測図を作った。
〈私にとり大隅は、考古学のすべてだ〉
私が今まで考古学に取り組んできたのは、この最初に書いた『粗石器に関して』の論文のいろいろな不備を直すためにやってきたようなもので、これがなかったら今までやってこれなかっただろう。そして、東北大学教授の芹沢先生に目を通してもらい、この『粗石器に関して』の不審な点をなおすように書いたのが『山形県大隅の石器文化』という論文だった。
〈旧石器だと思っていた〉
粗石器という言葉は、田原さんと私が「粗末な石器」だから粗石器と勝手に名付けたのではないかと思う。ただ表紙に粗製石器という言葉を利用しているのでその略語だったのかもしれない。ただ、私としては田原さんを含め、これは旧石器と思っていたことは確かだと思う。ただ日本では、洪積世のローム層での骨の発見などがなかったので、その頃は、無土器時代、先土器、先縄文時代という名称もできたのだと思う。最近は、もう旧石器という名前にだれもこだわらなくなってきている。
〈藤森栄一さんとの出会い〉
藤森さんは、当時田原さんがしていた縄紋文化研究会の会員だったので、手紙のやり取りなんかがあった。それで一度私は長野県諏訪市の藤森さん宅に見学に行ったことがある。すると藤森さんは、考古学の研究会を作られていて、お弟子さん三人くらいいたのに紹介する時に「山形からカモがネギ背負ってきたよ。一生懸命勉強したらいいよ。」なんて言われたことがある。これは、旧石器かもしれないというのは、全国そっちこっちにあったと思う。だから全国でいろいろ研究していた人がいたのだ。私の場合、幸運に恵まれたのだと思う。山形県が旧石器の宝庫だったのと、たまたま大隅が最上川の河岸段丘の丘の上にあり、最も人間が住まいするのに適していたということがあって報告できたのではないか。
〈代用教員になった頃〉
私が代用教員をしていたので、和合小学校で田原さんと一緒に研究できたのです。その代用教員になった時代は、教育委員会でなく先生たちが代用教員を選んだらしい。候補の一人は背の高い人、もう一人は背の低い私だった。先生方の多くは「背の高い先生の方が生徒に示しがつくのでいいじゃないか」と言っていたが、田原さんが「背は低くても菅井がいい」というので、私に決まったという話を後から聞いた。私が代用教員になれたのもこういう幸運があったからだろう。
〈大隅から始まって、大隅に帰ってきた〉
昔、代用教員で教育に関わって、そしてまた、今も教育委員長という教育の仕事に関わらせてもらっている。また教育に戻ってきたのだ。大隅も同じで、大隅から初めて、大井沢遺跡などの発掘にも関わったが、今また大隅の再発見に関われた。また大隅に帰ってきたのだと思う。
〈旧石器の日本発祥の地という看板でも建てて貰えたら嬉しい〉
大隅の発掘は、一九七九年に二日間おこなっただけだ。この時はあまりに出土品が少なかった。たった三点だけで、もっと多くの遺物が出土してほしかったが、それでも、石刃の出土位置が地表から九十センチメートル下のローム層の真上のところにあったのを確認できたのは幸いだった。そのまま掘り進んだら撹拌層にぶつかったので、見込みがないというのでやめた。でもあの台地はまだまだ将来発見できる余地はあると思う。
ただ発掘すればいいというわけでもない。発掘というのは、間違いなく遺跡の破壊でもあると思う。吉野ヶ里遺跡だったか、一度発掘して、風化して駄目になるというので埋め戻したらしい。だから土の中にあと一万年も眠らせておいて、一万年ぐらい先の考古学者に委ねるという手もある。しかし、まだまだ大隅遺跡には可能性がある。できればあの地に「旧石器の日本発祥の地」なんて看板を建てて貰うと嬉しいのだがな。
お話 : 菅井進さん(和合)
平成8年
2009.04.19:朝日町エコミュージアム協会