当地の豪族若狭茂経が建久年間に登勢堂(とせど・若宮寺の南の方)に築城したのが八ツ沼城の始まりです。いろいろな資料をまとめると次のようになります。
◆五百川と八ツ沼城の築城
1. 建久年間(1190〜98)五百川城主若狭の祖、蔵人という者、源義家に従って清原の残党平田次郎、同五郎を討ち、この地を賜り五百川と称した。その子孫重経は、泰衡の臣谷川右京を討滅して塞を八ツ沼に造った。
正平年間(1346〜1367)若狭守重政が長崎城主大江綱房によって滅ぼされるまで五百川領は続いた。
2. 文明元年(1469)又は五年、原家の祖先で原越後守は子隠岐忠政、小松加賀等とが五百川に来て八ツ沼に築城し八ツ沼城主となった。
(原家数世九十九年間)
〇1原越後守頼貞 〇2原紀伊守 〇3原隠岐守忠政 〇4原美濃守慶秀 〇5原甲斐守忠重 〇6原半兵衛兼道
◆ 原家の由緒
原家の祖先は、原土岐光衡と申す仁で、足利尊氏の御舎弟、左典厩直義公の家臣で、その正統は応仁の乱で、細川勝元に属した。乱後越前の国に入り、原越後守時代は敦賀城主として十二万石を領したという。その子隠岐守忠政の時に、明応元年(1492)、三角、佐々木の合戦に加わり、敗れて出羽国の山中に逃れ、八ツ沼に城を構えた。
お話 : 小松寿一さん(八ッ沼)
平成10年 対談「八ッ沼のおこり」より
※写真は古城跡
2009.04.21:朝日町エコミュージアム協会