昭和42〜43年頃、木川のキジコ沢の奥にあったたくさんトチノキが伐られ始めたなよ。影響はあるね。あの頃は、俺のダットサンのトラックで何回も運ばなんねほど採れたんだから。チェーンソー出たなで、どんな太いのでも切れるようになった。トチノキなんか太いから、手ではなかなか切れないものだったんだ。みんなチップ材にしたんでないかな。
キハダ蜜もずいぶん採れた時代があった。キハダは蜜が黄色いからわかる。キハダは薬になっから、皮をはいで重ねて背負って行くものだっけ。今でもそういう人はいるけど、昔の人と違って、ぐるっと剥いてしまうから枯れてしまう。我々の知らない奥のほうがどうなっているか心配だね。
トチノキの花房は、昭和四十六、七年までもっと長かったような気がするな。酸性雨なんかとも絡んでいるんでないべかね。
お話 : 多田光義さん(太郎)
バリ、バリ、バリって、直径二mもあるトチノキを目の前で切られた時は残念だったな。まだ花がいっぱい咲いていてな。簡単なんだ。あの頃、チェーンソ?の音があっちこっちで聞こえたね。太いトチノキを、トラックに縦に一本だけ積んで持って行くものだっけ。
切られてばかりでだめだっていうので、養蜂協会では毎年、蜜源樹の植栽をしているんだ。朝日町でも昭和四十九年に、町から勝生山を借りて五町歩にニセアカシヤやトチノキを植えた。
重い苗担いで大変だった。その後も毎年下刈りやって来たけど、ニセアカシヤにとっては、あまりいい場所ではなかったようだ。育ちが悪いね。なかなか難しいものだ。
お話 : 安藤光男(宮宿)
戦後、ソ連に抑留されて帰ってきた弟の話によると、あっちでは伐採作業の時、蜜源植物は絶対切らせなかったそうだ。意識が違うんだべな。日本でもこれからは、スギばっかりでなく、蜜源樹のような違った生産性のある植物にも目を向けて欲しいもんだね。
お話 : 峯田憲一さん(西船渡)
取材: 平成6年(1994)
2009.04.08:朝日町エコミュージアム協会