「岩宿遺跡より早かった大隅遺跡」
明治大学学長 戸沢 充則 氏
二十一世紀を先取りするまちづくり
忙しい日程を差し置いても、朝日町に伺いたいと思っていました。エコミュージアムの理念に基づく町づくりに、積極的に取り組んでいることに、心から共感を覚える気持ちが非常に強くありました。この町が、将来に向かってどのようになるかということを是非学びたい気持ちがあったからです。私は「トトロの森ふるさと基金」でナショナルトラスト運動の代表委員の一人になっています。その土地にある歴史遺産、自然環境というものをまちづくりに生かす仕事に多少関わってきました。この観点からも大変関心があります。
人類が永遠に生存し続けるには、人と自然が共存する二十一世紀の地球環境をみんなで急いで作らなければいけない時期だということを訴えてきました。そして今こそ、人間の心を大切にする教育、すべての国民が、一生を通じて心豊かな文化や学問に接しられ喜びを感じられる生涯教育を、積極的に導入することが必要であると痛感しています。エコミュージアムを理念とした様々な試みは、まさに二十一世紀を先取りする一つの地域づくりの実践であると思います。この町で一年ぶりに考古学の話をさせていただくことを大変光栄に思います。
研究誌『縄紋』は日本の旧石器の研究史上重要な文献資料
岩宿遺跡と大隅遺跡の発見というところに焦点を絞りながら話を進めたいと思います。1949年(昭和24年)菅井進さんが考古学研究誌『縄紋』に「粗石器に関して」という論文を発表しました。当時150〜200部刷っていたようです。この中で大隅遺跡の発見の経過が紹介されています。二ページにわたる短い論文ですが、日本の考古学の学史、旧石器の研究を語る上で非常に重要な文献資料です。
大隅遺跡発見の石器に関して具体的な事実の記載があります。「大隅発見の粗石器」と書いてあるところです。山形県西村山郡、当時は「宮宿町大字和合字大隅で粗石器が発見」されたと書いてあります。
考古学というのは、どういう地層からどういうものが出たか。その地層が、いつ頃のものかが、どの時代のものかの決め手になるかなり大きな要素になりますが、そのことが書いてあります。
地層の概略を言いますと一番上の畑を作っている黒土の「表土が約三十センチメートル」、赤土の「ローム層が約八十センチメートル」、「それより下は砂利および礫塊による洪積層である」。この地域は最上川の段丘になっています。段丘は川が流してきた泥や砂、石が積もってできた地層です。地盤の隆起で段を作っていく地層ですから、一番下は砂利および礫層からなる洪積層です。そういう地層の中で、大隅の粗石器といわれる石器はどういう地層から出たのだろうか。これは工事の時に出て、実際に菅井さんが発掘したものではありませんから、地層の中に埋まっている状態では確認できなかったわけです。
しかし、「どうやらロームの赤色土と同じらしいので、私はロームより出土したものと推定している」と書いている。菅井さんは、きちんと観察してローム層より出土したものであると書いています。
ローム層というものは、火山が噴火して溜まった火山灰の土壌といわれています。ですから、この大隅遺跡が発見される時期や岩宿遺跡等の発掘で確認される以前は、ローム層という火山灰が降るような所に人が住んでいるわけがない。人が使った石器や土器が出てくるはずがない。火山灰が降ってくるようなところでは、人間は死んでしまうと当時は言っていたのです。そのローム層の中から大隅の石器が出たらしい。出たことは発掘では確認できなかったけれども、石器に着いた土からそう言った。これは大変大きな観察の成果です。
大隅と岩宿の旧石器研究
私は、昭和五十二年に季刊誌『どるめん』に書いた論文『岩宿へのながい道』の中で「陽の目を見なかった大隅の粗石器」と書きました。陽の目を見なかったと、当時大変申し訳ないことを書いてしまったと思っています。
群馬県の岩宿遺跡が、日本の旧石器文化を最初に確認した場所だと一般的に言われています。岩宿遺跡で最初に確認したことは何か。一つには、新発見の石器は「それまで研究者の間で、無遺物層であるといわれた関東ローム層に包含されていること」。岩宿でもローム層中に石器があるということが最も大事な最初の発見です。
菅井さんは、岩宿が発見される以前、ローム層の中に遺物は無いという学会の常識の中で、大隅の石器にはローム層の土が付いており、ローム層から出たらしいということをいっている。これは、大変大きな発見であったと思います。
岩宿の発見の大事なことの二つ目として「土器を全く伴わないこと」です。当時日本では旧石器が発見されるまで、石器時代の遺物といえば縄文時代のものという時代でした。縄文時代の遺物というkとになると、当時縄文時代の土器が一緒に出るということです。岩宿では、いくら掘っても土器は伴わない。
岩宿より半年早い『粗石器に関して』という論文は、ハッキリ土器があるとか無いとか書いていませんが、採取された遺物は全て石器ばかりであると書いてあります。きちんとした石器の形をしたものが出てこない。日本の研究者が今まで見たことのないような粗末な形、だから粗石器という名前を付けたのでしょう。土器が無いと具体的に断定はしていませんが、「石器や石片だけが発見された」という記述があります。
この二つの事が、旧石器を確認する最も大きな決め手であった。今でも、そう言われています。全く〃ことが、大隅遺跡で確認されていた。発掘を伴わない報告ですから確認といえるかどうか多少問題があるにしても、石器についての観察では岩宿遺跡と殆ど同じことを言っていたことは、記憶に留めておいてよいことだと思います。
岩宿遺跡が発見された当時は、東京の中央の学者というのは権威ある人が揃っていて、それをヨーロッパの旧石器と比較したら間違いだという。学者らしい厳密さと言えば層ですが、心の狭い人が多かった。岩宿遺跡がヨーロッパや中国のどういうものと似ているというのがタブーだったわけです。当初、発見された後も旧石器とは言わずに「無土器文化の石器」(土器を持っていない時代の石器)と言いました。しばらく経ってから「先土器時代の石器」と言いましたが、旧石器とは言いませんでした。菅井さんの論文では、ヨーロッパの旧石器のことがとうとうと述べられています。「旧石器時代のムステリアン意以降のナイフを想起させるにふさわしい」ということ、ハッキリとある種のヨーロッパの石器と似ているということを書いています。この点では、岩宿よりきちんとした記述であったと言ってよいと思います。
旧石器発見へつながる三つの流れ
きちんとした大発見にも関わらず、大隅遺跡が、一歩岩宿より何故遅れてしまったのでしょうか。学問の歴史という冷厳な部分を見つめて、今後この大隅遺跡発見の意義を、学問の中にどう生かしていくか考えることが必要だと思います。岩宿発見以前に日本では旧石器文化の研究、発見がどのようであったのかを少し振り返ってみたいと思います。
①典型学派の仕事
旧石器という概念は、フランス等を中心としたヨーロッパで発見されて日本にも知識として入ってきました。イギリスの地質学者マンローが、日本にも旧石器はあるといっています。日本考古学史上重要な浜田耕作は、今では岩宿遺跡発見後の日本の代表的な旧石器の遺跡として見直されている遺跡を発掘した結果、一九八九年『河内国府石器時代遺跡発掘報告』の中で、旧石器の存在を否定している。
否定している理由が大変面白い。日本書紀とは古事記の神話の歴史で、神武天皇、天照大神以前は神様しかいなくて、猿のような人間は日本にいては困るという歴史が通用した時代です。浜田博士も、そういう歴史伝説からいっても日本列島に旧石器人がいたわけはないと、せっかく手にした旧石器を旧石器でないと否定することがありました。また、旧石器時代のことを研究するときには、日本の国体(国の考え方)に触れるから慎重にしなさいというので、日本における旧石器を否定するというのもありました。
一九三二年「まぼろしの明石原人」を発掘して、これが日本人の祖先であると初めて報告した直良信夫先生がいます。科学的に日本の古い人類のことを研究しようとした直良先生も、当時の学会全体の雰囲気の中で遂に世にでることはありませんでした。未だに、研究の結果が本当に正しいのか検証しないまま戦争の前の時代を過ぎてしまうのです。
これらは、典型学派の仕事として代表的な例を挙げたに過ぎず、こういう方がたくさんいたのです。要するに、ヨーロッパの旧石器の研究のことを知識としてたくさん持っていた。しかし、日本のことになると手をださない。研究を延ばすということをしなかった。西欧の研究について豊富な知識を持ちながら、典型や先入観に捕らわれ、日本の実際を正しくつかみきれなかったのです。
②編年学派の仕事
芹沢長助先生は、大隅遺跡の発見に関わって、いろいろな指導をしたことで皆さんご存じと思います。先生は編年学派に属する人です。日本の考古学の中で旧石器が発見される以前、石器時代の研究は、縄文時代に関する研究でした。縄文時代の研究の中で、戦前主流を成していたのは、土器の編年研究です。縄文時代は、草創期、創期、前期、中期、後期、晩期と時代区分がなされています。その中に、何々式土器というのが、東北だけでも一〇〇位形式があります。それぞれ特徴のある土器が使われていたわけですが、どれが古いかどれが新しいかということ、年式の序列を決める研究が編年研究というもので編年学派といわれる人達がやった仕事です。日本の考古学の歴史の中で世界に誇る一つの大きな業績といえます。
山内清男先生とか甲野先生、芹沢先生といった方が、戦前中心を担っていたわけです。その編年学派が、旧石器の発見にとってどんな役割を果たしたか。土器の模様を詳しく調べるかとか、どういう地層から出たかとか細かく観察する実際の資料に基づくという着実な実証方法により、一歩一歩縄文文化の上限を追いつめていった。縄文土器のある時代を一番古い時代まで遡っていくと、いずれは土器が無くなるかもしれない。そしたら、その前に何があるだろうかということを視野に入れながら、縄文文化の一番古いものを探し求めていったということです。編年学派という人たちは、縄文時代の一番古いものを追いつめていく中で、旧石器時代の存在に手が掛かろうとしていたのです。
③中間学派(細石器学派)の仕事
戦争直後の1936年、八幡一郎、斉藤米太郎、豊元国先生という典型学派と編年学派の間の中間学派と言われる研究者がいます。細石器学派と言ってもよい。八幡一郎先生は、日本の縄文時代の創期には、細石器という特徴的な石器が縄文時代の古い方には、よく一緒に出てくる。北海道とか東日本にはよく出てくるということを書いています。各地から発見される多くの縄文離れした石器、細石器とか菅井さんが一九四九年に問題にする石器も、今考えると、発見した六十年前は、八幡先生が問題にした頃は知られていた石器です。縄文離れした、普通なら石屑だと思って捨ててあるような石器を八幡論文をきっかけとして、たくさんの人たちが目を付け始めたわけです。
岩宿で旧石器が確認された後、各地からそういう資料が報告されるようになって、日本の旧石器研究は十年位の間に全国で何百という多くの遺跡が発見される急成長の発達を遂げるわけです。そういう意味で中間学派は、縄文という常識の中で、見慣れてきた研究者に、縄文とは違う石器が日本の石器時代の石器の中にあるということを意識させた。そういうものを採集してしまっていたのが、本当に不思議なことですが、中央の研究者、学者でなくて、地域で普段考古学の研究や採集をしている研究者であったことです。この町の大竹國治さんもその一人でなかったのではないでしょうか。
日本の旧石器研究は、大隅のような基礎研究の成果
整理しますと、一九四九年菅井先生の論文がでる。岩宿の発掘が成功する。その以前に、日本の旧石器を研究する動きはあった。研究の動向として、典型学派と編年学派と中間学派があった。この三つの流れが学史的にあったということです。こうした戦前からの研究があって、一九四九年九月に発掘調査された岩宿遺跡では、三人の研究者が関わっています。岩宿遺跡発見者の相沢忠洋、この人は細石器学派です。自分の活動範囲にある赤城山麓で、八幡先生のいう細石器を探すという、石器らしからぬ石器に鋭い採集の目を向けていたのです。芹沢長助先生は、当時若手の縄文編年研究の最先端の研究を明治大学でしていた編年学派の先生です。杉原荘介先生は、ヨーロッパの旧石器のことを盛んに勉強されていた。岩宿遺跡の発掘に立ち会ったこの三人の先生は、岩宿発見以前の研究の歴史的な背景を背負っていた人たちです。
当時、宮宿町の大隅は、岩宿よりは中央(東京)の学会から遠かったということ。それから、学史的な背景を持った研究を進められなかったという点が残念であったと思います。だからといって、会話した中でよく考えてみれば分かると思いますが、旧石器の発見は岩宿であり、旧石器の研究は岩宿だけから始まったということでは決してありません。そんな一つ二つの事柄で学問には、大きな全体の体系がある。旧石器の研究だって、確かに岩宿の発掘が大きな契機となっていますが、基礎を作った研究が大隅のみならず全国に広くたくさんあった。そのことが現在の日本の旧石器研究の大きな進展、発達を支えているんだということを考えるべきであると思います。
学問を愛する人、特に地域みんなで共同して学問を進めるという動きの中から、本当の学問の大きな発展というものがあると思います。
1949年、問題提起の早かった菅井さんの方が、岩宿遺跡に学史的に遅れをとるということになっていますが、決してそのことが大隅の旧石器の発見の意義を消すことではないと改めて考えてみることが大事だと思います。
人類が自然と共生する時代をつくる。それが二十一世紀へ向かっての新しいまちづくりの志であるとするならば、六十年前の大隅に負けないような大発見が、いずれこの地に起きるでしょう。その時こそ初めて、日本列島の国民の文化は、この朝日町から始まったといえるのではないでしょうか。そのためにみんなで力を合わせて、いいまちづくりをやっていったら良いと思います。私も及ばずながら、皆さんのこれからのいろんな活躍を期待したいと思います。
平成8年 大隅遺跡シンポジウムにて
2009.04.08:朝日町エコミュージアム協会