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明鏡橋のかたわらで
明鏡橋のかたわらで:2012.03.20

お話/ 菅井一夫氏

〈古い明鏡橋のこと〉
 小さい頃、母親に手を引かれて二見屋の鉱泉によく入りにいったな。旧明鏡橋の前に架かっていた橋は木の橋で、川が板のすき間から見える作りで渡るのがとても怖かった。

〈光玉堂について〉
 父が始めたお菓子屋「光玉堂」は、昭和一九年に沼向から今の明鏡橋のたもとに移転したんだ。終戦後は小さな店だった。物資や原料があまりない時代で、最初は最中を作っていた。
 私は、若い頃に川崎の軍需工場に就職して、上陸舟艇や特攻機用のエンジンを作っていた。東京空襲は川を挟んで目の前で見た。終戦前に体を壊してしまい、帰って来て光玉堂を継いだ。お菓子作りは、父も世話
になった宮宿の永勝堂さんで修行させてもらった。
 明鏡橋にちなんだお菓子「明鏡の月」というお菓子も作っていた。黄身あんをカステラまんじゅうで包んで、型に入れて形を整えてから電気釜で焼いた。法事などで頼まれると忙しくて、三日も寝ないで作ったことがあったな。昭和四八年(一九七三)の全国菓子博覧会に朝日町の菓子組合のみんなで出品したことがあったけど、うちではこの「明鏡の月」を代表作として出した。でも、十数年前に妻が体を壊してから菓子作りは辞めてしまった。

〈明鏡橋付近の様子(大隅側)〉
 移転した当時、近くにはお茶屋さんやタガ屋(桶屋)さん、魚屋さんもあった。うちもバスの停留所だったから、祖母が待っている人にお茶を出したりしていたな。
 明鏡橋は男女の出会いの場で、夏の夕方になると若い男女が「ヤーヤー」と集まって来て、橋が落ちるほ
ど賑わっていた。うちでは左沢の柏屋から氷を買ってきてかき氷を出していた。けっこう繁盛した。橋のすぐそばには簡易な小屋を建てて天然
氷で商売した人もいた。今なら許可出ないだろう。大隅の堤に張った氷を冬のうちに切り出して、大竹国治さんの屋敷にあった穴蔵を借りて夏まで保管していたんだ。国治さんは蚕の種屋をしていたから大きな穴蔵があったんだ。  
 橋の欄干の両脇には、皇紀二六〇〇年(一九四〇)を記念して植えられた大きな松の木があった。今は枯れてしまった。今考えるともったいながったな。

〈人助けの杉の木〉
 事故は毎年のようにあった。十五年くらい前の雪の朝、トレーラーが橋の入口で横倒しになって通行止めになったことがある。幸い運転手は川に落ちなかったが、橋の欄干を川に落としてしまった。その時は、冷蔵庫の電気や電話線も切れて大変だった。
 いつだったかは、乗用車が橋と公民館の間から落ちそうになったが、橋のそばの杉の木に引っかかって川に落ちなかった。その杉の木を「人助けの杉の木」と言っている。今もその杉の木は健在だ。

〈増えている見学者〉
 最近、旧明鏡橋を見に来る人が少しずつ増えているようだ。夏には、熊本の学生さんが来た。大学の先生から「明鏡橋を見てくるように」と言われたと言っていた。しばらく前には、ダニエル・カールさんが取材で歩いて来てトイレを借りていったことがあった。
 古い明鏡橋を壊さないで、そのままにしていただいてありがたいと思っている。私は明鏡橋の恩恵をもらって生活してきた。とてもありがたい橋なんだ。

菅井一夫(すがい・かずお)氏 / 昭和4年生まれ。光玉堂代表。

(2011年1月 取材/小野重信)

※上記、ダウンロードボタンより印刷用pdfファイルを開けます
2012.03.20:朝日町エコミュージアム協会

12.五百川峡谷エリア:住民学芸員のお話

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