(記事 / 町報あさひ 昭和36年(1961)8月5日号より抜粋)
堀敬太郎さんのお話 昭和三十六年の町報あさひに、花火に関する詳細が出ています。
大谷地区では江戸時代から花火を打ち上げておったといわれておりますが、本当かどうかの確証はありません。しかし、この記事には、江戸時代には火薬の取り扱いは医者が扱っており、白田内記家が白田医者を製造元として「旭連」という連を作ったと。そして白田外記家は、ちょうど今の鈴木床屋辺にあったといわれる浜田医者を製造元として「松本連」をつくって、お互い競い合って花火を打ち上げておったと書いてあるんです。それが明治になり、警察がほとんど火薬を取り扱うようになって、勝手に花火を作ることができなくなり、さあ困ったということで、東の白田藤三郎さん(昭和三十九年に亡くなって、ちょうど今年が五十回忌)を福島に花火師として養成するためにやったと。
そこで勉強して大谷に戻り、松本連、旭連を解消しまして「旭連金玉屋煙火製造販売業」という会社を興して、大正14年まで製造販売もしたと。ちょうど愛宕様に火薬庫があったと昔の人から聞いておりますし、実際製造したことは間違いないと思います。私たち小さい頃はよく花火屋、玉屋って呼んでいました。今も屋号は花火屋ですね。白田八郎さんの小屋に行ってよく花火の殻なんかも見たことがあるので、製造したことは間違いないと思うのです。それが大正十四年まで続いたというふうに書いてあります。
そして明治四十三年に東北の花火大会に白田藤三郎さんが出場して、第三位になったんだそうです。その時の賞品が柱時計なんだけど、残念ながらこれはないそうです。今は孫さんが打ち上げを現在も継続してやっています。
(大谷風神祭シンポジウム・パネルディスカッション 2013.9.25)
エコミュージアムの小径第15集『大谷風神祭』より抜粋
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小径第15集『大谷風神祭』
2014.08.09:朝日町エコミュージアム協会