大谷風神祭シンポジウム基調講演
大谷風神祭の特異性 〜あの賑わいはどこからくるのか〜菊地 和博氏(東北文教大学短期大学部総合文化学科長・教授)
■はじめに
子供が小学五、六年生の頃、夏休みの社会科の自由研究で白山神社と永林寺にお邪魔したことがありました。そこで何を一緒に調べたかといいますと、私の住んでいる東根市の若宮八幡神社神主三浦蔵人(みうらくらんど)と大谷の白山神社宮司の白田外記(しらたげき)が、永林寺に一緒に眠っていることでした。幕末にこの二人は組んで、薩長、薩摩・長州の官軍に対抗しようとして兵を上げたのですが、途中の寒河江川臥龍(がりゅう)橋あたりの川原で首切られるんですよね。
それから、私はシシ踊りを全国的に調査しており、大谷の獅子踊りのみなさんにも大変お世話になっております。シシ踊りは、静岡県の真ん中あたりの掛川市にわずか一団体あるだけで、だいたいは神奈川県以北の東日本にしかない民俗芸能なんです。
こちらでは、十五日の送り盆の時に境内で踊られますが、今となっては珍しいことです。東北地方では、ほとんどそういう風習はなくなってしまいました。現在は神社のお祭りなどで踊られていますが、本来は東北地方のシシ踊りは亡くなった方に対するお盆の鎮魂供養の踊りなんです。
さて、大谷の風神祭は十数年前にはじめて訪れて素晴らしいなと思ってから、二、三度友人たちと来ています。ここに『山形県の祭り・行事調査報告書』というものがありますが、私は村山地域を担当しました。調査執筆委員が、これは特に取り上げたほうがいい祭りだな、と思うものを掲載する方針だったのですが、その一つに大谷の風神祭を選ばせていただきました。
このようなことで、私は大谷にずっと親しみを感じています。今日はこのようなかたちでお招きいただくとは夢にも思っていなかったので、とても嬉しいです。
■風神祭のはじまり
大谷の風神祭の由来・伝承を改めて確認しますと、白山神社の行事と
して宝暦年間(一七五一〜一七六四)に始まっていることが一つ大きなポイントです。宝暦五年は「宝五(ほうご)の飢饉」と言って、特に東北地方に大飢饉が起こった年です。この風神祭は、豊作祈願を祈る切実な気持ちで始められたということが見えてきます。神社とその集落の人々の暮らしと一緒になって作られてきた祭りなのだというふうに思います。
さて、打ち上げ花火が明治以降加わっているということですが、どういう理由で始まったのかをご存知の方はあとで教えていただきたいんです。
実は、全国の先がけでもある隅田川の花火は、江戸時代に飢饉で食べ物が無くて死んだ餓死者と、さらに、餓死する前に栄養失調になって体が弱り、疫病が蔓延して死ぬ疫死者の供養として花火を打ち上げられているのです。新潟県の長岡の花火大会は、戦死者を供養するねらいで始まりました。二年前の東日本大震災の夏もやはり供養の花火という意味で沿岸沿いで打ち上げられました。「三陸海の盆」と称して、花火を打ち上げて、弔いの芸能のシシ踊りや鬼剣舞などを踊りました。
風神祭で田楽ちょうちんを持ち歩いていることや、供養の踊りである大谷獅子踊りが加わっているということなどは、やはり宝暦の餓死者などの供養という意味で加わった可能性もあると思います。
■盛り砂
神輿が通る道筋に、大きな道路から細い路地、そして家の前まで点々と二、三十cmぐらいの間隔で「盛り砂」がまかれています。これは神の通る通り道を示しているんだろうと思います。これほど丁寧にやっている所というのはなかなかないです。祭りのとても素敵な風景ですね。
この盛り砂というのは、古い時代に儀式や貴人、尊い人を出迎えるとき、車寄せの左右に高く盛る砂のことを言います。また、御所車みたいな牛車に位の高い人が乗って到着した家、その前の左右にも三角型に砂を盛るんですね。場合によっては、盛り砂の一番上に神社にある御幣を立てます。それから、お祭りで御神輿が一泊する場所の御旅所(おたびしょ)にも、ここに神がいらっしゃるということを示すために盛り砂をします。
ですから、大谷の盛り砂はそれぐらい神様を尊くお迎えする神祭りだということを示しているのだと思うのです。私は、今まで見たことがなかったものですから最初に見た時はびっくりしました。これはとてもいい習慣だと思いますのでぜひ続けてください。
■参加型の祭り
さて、資料の「大谷風神祭の特異性」というタイトルに「あの賑わいはどこからくるのか」と、あえてサブタイトルに付けさせていただきました。小規模な集落なのに、あれぐらい多くの、しかも若い小・中・高生たちが集まるっていうのが、私にとっては疑問だったのです。そこに何かカラクリがあるんだろうかと思うほどでした。
ひとつはっきり言えることは、地区民参加型ということ。地区民が主役である参加型の祭りって意外とないんですよ。どうしても集客力アップのために、よそから歌手や漫才師などの有名人や演技者を招いて主役として組み立てることが多くなっていますが、こちらはまさに地元の人を資源として大事にし、それを基本として企画立案されています。ここがなんといっても素晴らしいことであり、祭りが盛り上がる要因になっていると思います。
■屋台(山車)
具体的に言いますと、一つに屋台の寸劇・出し物が見事です。舞台から解き放たれた、路上でパフォーマンスをやっておられます。区によって出し物がかち合わないように、またバラエティーに富むよう棲み分けをしておられる。
ここに飾っていらっしゃる大きな絵は、今年の屋台で使った人気ドラマ「水戸黄門」のバックに使った図柄ですよね。「西遊記」もやっていました。以前はNHK大河ドラマの「利家とまつ」や昔話の「花咲か爺」や「桃太郎」をおやりになっていた記憶もあります。民話・昔話などの題材はとてもいいですよね。日本人の心みたいなものを、このお祭りの賑わいの中で、それとなく、あまり説教調でなく伝えている。芝居って非常にいいですよね。
そうかと思えば、いきなりの現代もの「ぱみゅぱみゅ」とか、昨年はダンスチームもあって、今流行の踊りや芸能を取り入れてやっておられる。古いものだけでなく、新しいのも一緒にやることによって若者も参加しやすい。そういう意味で大変成功している例ですね。路上でやるっていうのが、見る者・演じる者が一体化しやすくいいですよね。
■田楽提灯(でんがくちょうちん)
子供たちの参加ということで、各自が持って行列する田楽提灯。祭りの中に、参加の時間と空間がちゃんと保障されているのですよね。みんなで祭りを盛り上げるんだという思いを、子供の頃から体験させている。提灯も出来合いのものを買ってくるわけじゃなくて、手づくりということがまたいい。そして、近代的な灯りではないロウソクが中でボーっと灯って、まだ真っ暗ではない夜の帳(とばり)が降りる頃に、たくさんの提灯がスタートする。中々いい光景が見られます。
この田楽提灯のパレードというのは、実は私の東根市でも「動く七夕提灯行列」ということで毎年八月十日の夜にやっています。戦前からあり、以前は子供の集団の先頭に音楽隊が付いていました。私も小さい時に参加したんです。音楽隊のうち小太鼓をさせていただいたり、それから田楽提灯に自分の好きな絵を描いて、友達と持って歩きました。
最初にこちらにお邪魔した時、同じものがあるということでびっくりしました。向こうが七夕提灯行列、こちらは風神祭の提灯行列なんですよね。
これと同じのは秋田に割りと多いんですよ。秋田県上小阿仁村の「ネブ流し」。やっぱり七夕の提灯行列です。それと、岩城町の「刻(とき)参り」は、主に将棋の駒みたいな形ですね。でもこれらがどこで繋がっているのかどうか、その背景や理由を明らかにするのはちょっと難しいですね。
近年、なかなか子供が少なくなり大変な側面があるかと思いますが、ぜひ続けていただければなと思います。
■角田流獅子踊り
大谷獅子踊りが風神祭に加わっているというのも特徴の一つですね。
ここの獅子踊りの伝来は宮城県の角田市から伝承されたとされますが、角田市には今現在獅子踊りはないんですよね。かつてあったことも、もちろん考えられるんですが、角田流っていう名前が、どこからそうなったのかがいま一つ分からないのです。
今後の手がかりとしてシシの頭数があります。大谷の獅子踊りは三頭のシシ踊りですよね。あと、八ツ沼獅子踊りもそうです。でも、三頭というのは山形県では置賜だけなんです。村山・最上・庄内は、最低でも五頭です。それからあと七、八、というふうに多くなっていきます。東北のシシ踊りは頭数が多いです。関東のシシ踊りが三頭なんです。不思議なことに、この三と五と七とかっていうシシの頭数は、同じ市町村内や地区内でごちゃごちゃあるっていうことは絶対にないんですね。不思議なほど一定のエリアで棲み分けが出来ているんです。これは、東日本全域見てもそうなんです。この頭数からシシ踊りの根拠というか伝播されたかっていうことがある程度分かってくるんです。このことから、大谷獅子踊りは、村山地方南部でありながら置賜圏域に属するものだということがわかります。
これを考えるのにもう一つヒントがあるのが暴れ獅子です。
■獅子神楽
あばれ獅子は、村山地域と置賜地域との文化的融合性を感じさせるものです。あばれ獅子のあの姿ですが、何人か中と外に複数で幕を支えています。そして時折元気につっこみますね。そして地面を這うように頭(かしら)を動かす。なかなか見事で凄い芸だと思います。あの踊り方は、やはり置賜なんです。置賜は“黒獅子”とか“ムカデ獅子”というのですが、黒獅子と呼ぶのはカシラが黒いからなんです。 大谷のは赤いカシラですよね。これは見慣れた「唐獅子系」なんです。ところが置賜の黒は「蛇頭(じゃがしら)系」と言って、蛇とか龍とかを意味しカシラが平べったい。大谷のは少しカシラが立ってる。置賜はムカデ獅子であり幕の中に二十人くらい入るんです。南陽の熊野大社のシシ(「獅子冠」といいます)は、大谷みたいに脇からひっぱってますね。中にも入ってる人いますけど、さらに外にも出ている。
以上、シシが三頭であることやムカデ系獅子舞ということから、大谷は村山地域と置賜地域の境界にあたっていることもあって、双方の文化的要素が溶け合ったということが考えられる。
■望まれる参加型の祭り
私が住んでいる東根市の若宮八幡神社にも「風祭り」があるんです。今は八月最後の日曜日にやっているんですけど、私が小さいころは盛大な祭りだったんです。この祭りでは「若宮八幡神社太々神楽」という神楽が、毎年境内の舞台で演じられています。江戸時代から続く素晴らしい芸能です。そのほかに子供の相撲大会、これも少なくなったけれど今もやっています。それから剣道大会、柔道大会には、近隣から境内が溢れるほど大人や子供がやってきたんです。そして出店もこちらと同じくらい並びました。大谷が四十店近く出るというのは凄いことです。八幡神社では今ではもう少なくなって三つか四つくらい、まったく寂しくなりました。
私はその神社の四軒下った場所にある家に育ったので、小さい頃の賑わいをはっきり覚えています。境内で相撲してみたり野球してみたり、神社とともに育ったみたいです。そのお祭りは楽しくて心待ちにしていました。学校は半分休みで、相撲大会に出るため授業は午後から終わり。昔の学校って地域と一体で、お祭りがあるとお休みだったんですけどね。今は、そういうのがないのは残念です。
大谷ではずっと江戸期以来の賑わいを保ち、参加型が続けられていますが、これとは正反対に東根の若宮八幡神社の風祭りでは地元参加型がほんとに少ないんですよ。
こちらの風神祭は子供や大人ともに七区あげて参加する。屋台、出し物それぞれ工夫を凝らしてやる。その練習も辛いだろうけども楽しい。参加するための練習を公民館で一生懸命やって、そこで人間関係が作られる。祭りの時の披露だけでなくて、子供も大人も準備の段階がとっても大事なわけですよ。私は、まざまざとその比較ができますので、こちらの賑わいが羨ましくてしょうがない。やっぱり若宮八幡神社の風祭りが賑わいを取り戻すためには、地域住民が参加してみずから楽しむ企画内容を工夫しなきゃ駄目だと思いますね。ただ来て下さいだけではなく、その祭りを見る人も一緒に楽しむという、そういう空間・場をつくらないといけないだろうと思います。
■神なき祭りと神々の祭り
最後になりますが、現代の祭りは、あんまり祈り・願いなんて考えない「神なき祭り」が増えている。つまり、祈りを捧げる神様などはあまり意識しない「よさこいソーラン」なんてやっていらっしゃる場合が多い。それに対してこちらの祭りは、伝統の祭り、神々の祭りなんです。白山神社の神に対する、あるいは風の神に対する切実な祈りと願いですね。それらが中心として成り立っている祭りなのです。
そういう意味で、私たちは自然に対する畏れや祈りを取り戻す必要があると思いますね。あの大震災を経験して自然の威力を感じ、やっぱり私たち人間のやれる範囲っていうのは限られていることが分かりました。科学技術も大事だけれども、やっぱり風の神、山の神、田の神、川の神、海の神とか、そういう自然の神々への祈り・願い、畏れ敬う気持ち、つまり信仰心を持ち続ける。傲慢な気持ちを排除して敬虔な気持ちになって、自然と折れ合いながらささやかな幸せを求めていかなければならないと思います。
風神祭というのは、風の神に対して五穀豊穣、悪疫退散、身体堅固、地域社会の平穏な生活の保証を切実に祈り、願いを託する。近代社会になって合理的な世の中になっても、こういう心を大事にすることによってそこに暮らす人々の絆が深まり、集落にまとまりが出来ていく。それが、小さくてもキラリと光る大谷をつくりあげているんだと思っています。ぜひ住民参加型を大事にしてこの祭りを続けていってください。
菊地 和博(きくち かずひろ)氏
昭和24年(1949)生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。文学博士(東北大学)。県立高校教員、県立博物館学芸員などを経て現職(東北文教大学短期大学部総合文化学科長・教授)。専門分野は民俗学・民俗芸能論。主な著書は『シシ踊り 鎮魂供養の民俗』(岩田書院)『庶民信仰と伝承芸能』(岩田書院) 『やまがた民俗文化伝承誌』(東北出版企画)『山形民俗文化論集1 やまがたと最上川文化』(東北出版企画)『手漉き和紙の里やまがた』(東方出版企画)など。」
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小径第15集『大谷風神祭』
2014.08.17:朝日町エコミュージアム協会