あさひまちエコミュージアム|山形県朝日町見学情報データベース
田原眞稔さんの思い出2009/04/19 05:59 (C) 朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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※当サイトの全ての情報は、精通する朝日町民、朝日町教育委員会、学術者のみな様の情報をもとに、朝日町エコミュージアムルームの業務を受託するNPO法人朝日町エコミュージアム協会がまとめたものです。朝日町の観光や郷土学にお役立て下さい。
所在地 / 〒990-1442 山形県西村山郡朝日町宮宿2265 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」エコミュージアムルーム内 TEL0237-67-2128(月・木休み)
※大黒様写真/撮影 萩原尚季さん(コロン)
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田原眞稔が石器や土器に興味を持ったのは、小学校三年くらいからだったと聞いている。その頃だと、この大隅あたりを歩いては、石器や土器を拾いに出かけたらしい。今も残っているが、ボロリュックと巻き尺なんか持って歩いていた。菅井進さんなんかと一緒に歩いたこともある。石器のでる所は、裏に丘陵があって、下は開けているという所だと話していた。そして、こういうところが昔の人が住まいするのだと話してくれた。
〈結婚した頃〉
眞稔さんは、大正十四年生まれで、私は大正十五年生まれです。私は大井沢(西川町)生まれで、父は学校の先生で姉は医者(志田周子)だった。私は、兄が出征して帰るまでの約束で家に帰った。そんな私をみて、叔父が田原との縁談を進めてくれた。どうせ百姓するなら良い場所がいいと思っていたので、家の周辺が畑なのは、働きよいと思った。
〈田原家のこと〉
眞稔さんもこの土地が好きだった。田原家は、五町歩の御朱印地を持っている神社だった。大谷には、白田外記、内記など御朱印地が多かった。この田原家は、本業は神職で、医業が副業だった。三代前頃は、寺子屋をしていて近隣の子弟を教えていた。兄が医者になる予定だったが、若くして死んだので後を継いだらしい。
〈『縄紋』を出していた頃〉
考古学が好きだったので、入門書から専門書、までずいぶん多く読んでいたようだ。山形師範では、長井政太郎先生の弟子で、三面部落の調査の時の原稿も自分が書かせてもらった。昭和二十年に師範を卒業すると和合小学校に勤務した。この頃菅井進さんや大竹家と知り合った。私が結婚したのは、昭和二十六年だから、もう『縄紋』も終わりの方だった。今でも多くの人達から来た手紙が残っているが日本中の研究者と連絡していたようだ。後々までいろいろな連絡が来ていた。学校から帰って夜中になると原稿を書いていた。あまり遅くまで起きているので朝はつらかったようだ。学校に遅れて行ったりしていた。あの頃はそれでも勤まったが、今だったら勤められたか分からない。昭和二十二年に『縄紋』第一集出しているけど、あの時は紙の少ない時代で、教員になってからの給料は、ほとんど『縄紋』に使ったと思う。私は、一度も主人の給料を見たことがない。
〈東京大学で講演したことも〉
日本中で『縄紋』読んでいたみたいで縄紋文化研究会には、日本中に会員がいたようだ。文部省から研究費をもらっていたこともあったが、経済的には大変だった。この研究には、会費とか会議とかいろいろなお金がかかったようだ。学術会議の会員にもなっていて人文学部の選挙権もあった。昭和三十年頃だったと思う。「縄文学の提唱」という題で、東京大学で論文発表してきた頃が、主人としては一番良い気分の時だったと思う。
それ以降、病弱な子がいて、母が病気になったりで、生活に重点を置かざるを得なくなり、学校を辞めたのだと思う。農業で生きられる人ではないと思ったので、私も、私の姉たちも学校を辞めないようすすめたが、言い出したら聞かない人だった。
〈縄文の博物館を作ろうとした〉
学校を辞めたのが昭和三十二年です。私が畑、主人が給料と二つあるのが良いと思っていたが、りんごを始めていたので、それを本格的にするというので辞めた。学校辞めてりんご作ろうとしたのは「縄文博物館」を作るのが夢だったと話していた。にんごで生活を安定させて夢を実現しようとしたが、現実には思うようには行かなかった。
〈日本のシュリーマンに〉
体こわしてからも菅井さんなんかが、改めて発掘しようとか誘いに来たけどあまり熱心ではなくなった。シュリーマンの様に大きなことをやりたかった。そのためにはお金が必要で、それで農業で生活の基礎を築きたいと思った。その頃、給料は安いし戦後の食糧不足の時代だったが、和合の方はりんごで景気が良かった。りんごで稼いで本格的に縄文の研究したかったのじゃないかな。大学の非常勤講師もしていたが、農作業が忙しくてそれどころではなくなった
〈何にでも研究熱心だった〉
学校を辞めてりんごづくりと鳥飼もした。鳥飼したときも『養鶏の日本』なんて本を読んでいた。りんご箱でゲージ(鳥かご)を作って五百羽も飼ったことある。その卵を仙台のお菓子屋に売りに行ったり、塩釜から魚のアラをトラック一杯買ってきたりした。何でも大規模にしたい人だった。研究熱心で鳥のくちばし切ったり、羽根切ったりしてどうしたら効率良く育てられるか研究したりもした。
りんごも作り始めると青森の渋谷雄三さんの剪定の本を取り寄せて勉強していた。剪定は、教えに行ったこともあるし賞ももらったし、本人も剪定が一番面白いと言っていた。でも、若いときから労働した人ではないから、労働の連続はできなかったのじゃないかと思う。
大竹の叔父は、大分主人を気に入ったらしく、和合小から送橋に転任になるときなど教育委員会に異議申し立てをしたハガキもある。だから、石器も預ける気になったのだと思う。旧石器のことが次第に知られるようになってくると、山形大学生や石器に興味を持つ人が訪ねてくることが多くなり、仕事に影響するようになっていたし、柏倉先生や加藤稔先生等も見にいらっしゃったのを覚えている。その頃だったと思う。「山形大学に貸してやることにした」と言っていたのを覚えている。どなたと、どんな約束をしたのかは分かりませんが、貸してやったと言っていました。
この家には、集めてきたいろいろな石器や土器が町から貰った収納箱に残っている。いつかどこかで展示できたら良い。
〈この土地が好きだから〉
千年近くも続いている家なので、できるだけこの土地を残したいと思っていたのだと思う。ずいぶん苦労もさせられたが、夢のある楽しい人だったと思っている。個人でスプレヤー(消毒などの散布機)を採り入れたのも早かったし、自家用の車を入れたのも早かった。中古で買った牽引車を今も使っている。この土地を残してもらったおかげで、今も働けて何とか生きてこられたのだと思う。
眞稔さんもこの土地が好きだったから、ここでりんごづくりをしたのだろう。小さい時から自分が大きくなったら、この土地に住んでこの土地を守ると話していたらしい。
本当にこの土地が好きだったのだろう。手相を見る人に、五十代で命に係わる病気をすると言われたと言っていた。四十代半ばで大病をし、五十五までの人生は短すぎたと思う。
お話 : 田原倫子さん
平成8年