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青苧の栽培と製品化

2009/04/16 21:36/青苧の栽培と製品化
 青苧を売り物にするには、ただ自生するからといって出来るものではなかった。きれいに育つように相当手入れをしていたんだ。枝など出てしまうとダメだし、長さもなんぼ以上と規定があった。短いのや枝が出てしまったものは、家庭用として使っていた。
 刈ったものは、束にして水に浸けていた。普通の井戸では無理だったから、長掘に重石を載せて浸けていたような気がするな。それを背負ってくるので、一束でも相当重かった思い出がある。
 水に浸けた後は、皮をはいで輪のように丸くおっくり置いていた。はぐ人が広げてすぐできるようにしていた。
 はぐのも人によってかなり差が出たな。すっとできる人もいれば、途中でもげてしまう人もいた。私の家では、上手な人を特別に頼んでいた。
 売り物の青苧は、先の方をきれいに筆の先のようにして格好よくしていた。どうやっていたかは覚えていないが、じいさんがなめながらしていたような覚えがあるな。本当にのり付けしたようにきれいになっていた。
 最後に一束ずつ天日に干して、真っ白く仕上げていた。売り物として出荷するには、色や形は大分やかましく言われていたな。特に色が重要で、真っ白いものが一番だった。
お話 : 志藤富男さん(大谷)
 
 青苧は、おがるほど良いと聞いていた。青苧の高さは二メートル以上あったから、育てるのに肥やしのようなもの、おそらくたい肥をつかっていたのではないかな。
それから青苧の芽がでるのは霜が落ちなくなってからだから、霜は心配なかったな。
 本当に青苧は高く売れた。だからみんな一生懸命していた。
私の家には青苧はぎの道具も残っているが、はぐ時に使う「引き板」は、度々新しいものを重ねていくことで、弾力が出てやりやすくなったんだ。
お話 : 白田千代志さん(大谷)

 昔から、茎から繊維をとる青苧は、大切な衣料の原料となり、主に夏季衣料に用いられ、奈良さらし、越後縮、近江蚊帳などの原料となった。
 明治元年(1864)「最上名所名産名物番付」の横綱は最上の紅花で、その次が最上青苧になっている。その青苧の半数が「五百川苧」「七軒苧」が占め、名産として格付けされていた。今で言えばメーカー品のようなもので高い値で取引されていたといわれている。
 しかし、その青苧も明治の末頃から養蚕業の発達によって、畑地は桑が主流を占め、衣類も高級な絹織物に変わった。そのため青苧栽培は衰退してしまったようだ。
お話 :堀敬太郎 さん(大谷)

志藤 富男(しとう とみお)さん
昭和3年(1928)生まれ。農業 朝日町大谷六在住。
白田 千代志(しらた ちよし)さん
昭和3年(1928)生まれ。農業 朝日町大谷五在住。
堀 敬太郎(ほり けいたろう)さん
昭和3年(1928)生まれ。朝日町エコミュージアム案内人 朝日町大谷一在住。

取材 : 平成19年(2007)

志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話
青苧の使われ方
和田新五郎さんのお話
和田新五郎さんの青苧
栽培から糸とりまでの作業
報告
青苧糸とり体験記

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


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