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三中分校の思い出

2009/04/21 08:00/三中分校の思い出
 三中分校へは、昭和五年、六年と在学しました。当時の入学児童数は二十二人で、先生が一人、子供たちは着物(和服)やもんぺで通学していました。また、現在のようなノートがなかったことから、石盤(筆記用の粘板岩の薄い板。昔、子供が石筆で文字や絵を書くのに使った)を使い「はな・はと・まめ・ます」などと読み書きをしていたものです。
 終戦後は、三中分校を使い素人演芸会を開いていました。農作業が終わると自然に地区民が集まりああでもない、こうでもないと夜遅くまで練習した思い出があります。
お話 : 鈴木栄一さん(八ッ沼)

 私が入学したのは昭和二十八年で、児童数は五十人くらいだったと思います。当時の思い出は、一生懸命に掃除をしたことや校舎の周りを走り回ったこと、学校の帰り道で化石探しや魚捕りをしたことなどが記憶にあります。最近までは、私の住む能中地区の「協有会」という若衆会で、年一回、校舎周辺の清掃作業をしていました。また同級会では、集合場所を三中分校にして、思い出話に花を咲かせてます。やはり、大人になった今でも、何かしら三中分校と関わりをもっていたい気持ちがあります。
お話 : 海野義弘さん(能中)

 私は昭和六十二年の入学で、児童数は十人でした。授業は普通の教室での授業のほか、野山の探検や青空教室などがあり、楽しかった思い出があります。少人数だからこそできた授業だったと思います。また、三中分校は、勉強だけでなく遊びでも中心でした。これは昔からそうだったと思いますが、卒業してからもつい立ち寄ってしまう、そんな忘れられない存在ですね。
お話 : 佐竹千鶴さん(八ッ沼)

 昔は公民館がなかったことから、地域活動や青年団、消防団活動となると、毎晩のようにこの校舎の三階に集まり、酒などを飲み交わしながら語り合った記憶があります。このように三中分校は、子供たちだけでなく大人も公民館的なものとして利用した、地域に根差した学校でした。閉校となった今でも三中地区のシンボルとして、私たちの心にしっかりと生き続けている宝です。
お話 : 佐竹充廣さん(八ッ沼)

(平成10年 旧三中分校シンポジウム・パネルディスカッション「三餘学校は私たちの宝物」にて)

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