あさひまちエコミュージアム|山形県朝日町見学情報データベース

和尚様の話

2009/04/21 06:20/和尚様の話
思いのいっぱい詰まった豆菓子
 この寺で学校が開かれたのは明治八年。今から123年前の事です。そして、今の旧三中分校、三餘学校となったのが明治十五年のことです。
 さて、三餘学校の頃から三中分校になってもずっと伝えられてきたものがあります。なんだと思いますか。そう、まめです。今日受付でもらった煎ったまめに砂糖がまぶしてあるものです。白い砂糖です。私の大爺ちゃんも私のお父さんも、そして私も三中分校に入学するときには必ず持たせられました。重箱一杯の豆をもって入学式に行って、入学式が終わるとそれを広げてみんなで食べたんですね。白い砂糖なんかはホントに高価だった頃、その高価なお菓子を持って入学式に臨んだんですね。重箱一杯たがって、みんなでがばがば食ったわけです。
 でも、この豆の中には一つの願いが込められています。入学したときからおっきくなるまでずっとまめで暮らせますように、角のある人間でなく丸く優しい人間になってくれますように。母ちゃんだの願いがこの豆には込められているんです。お母さんたちの愛情がいっぱい詰まった豆なんです。

寺子屋を開いた盛恬和尚
 さて、この三中分校、学校として始まったのは明治八年でした。しかし、私がこれからお話しするのは学校が開かれる前の、寺子屋の時代の話です。
 寺子屋を開いた人はどんな人かというと、名前を盛恬というお坊さんなんです。りっぱな顔しったね。この盛恬和尚さん、偉いお坊さんだったんです。しわくちゃで、口をぎゅっと曲げているような、けっこう性格がごうじょっぱり。気むずかしいお坊さんでした。どこで生まれたかというと、山形の船町一乗院というお寺に生まれました。名前は、「一」と書いてはじめと呼びました。寛政二年今から208年前に生まれた人です。五歳の時に山形宮町の両所の宮、成就院という寺がありました。この成就院という寺に盛諄というりっぱなお坊さんがいました。そのお坊さんについて得度式を受け、元浄という僧名をいただきました。その後、盛諄和尚さんから盛恬という名前を改めてもらったのがはじまりです。盛恬という名前をもらって何をしたかというと、羽黒山の山岳仏教、または船町の貴船神社社斉、真言の開祖である大日経、または事相、教相、漢詩等々、あらゆる勉強を三十八年間積みました。

盛恬和尚八ツ沼へ
 三十八歳の年、山形の成就院にいたこの盛恬和尚は、初めてこの若宮寺に住職として入ることになったのです。山形からここまで住職としてやってくるんですね。何できたと思う?歩いて。その通り。山形から歩いてきたんですが、一人で来たわけないですよ。家財道具みなもってきたんです。長持〜、日常生活品、経典や様々な書物、様々な法具、そういった物をみんな詰め込んでやってくるわけです。この八ツ沼という土地から百二十人が出向いて迎えたんです。ずっと来る様子はさながら大名行列のようでした。そういうふうに古文書には記載なっています。んだらどの道ば来たんだべ。山形から山辺、山辺から大蕨、大蕨から送橋、前田沢、宮宿、助ノ巻、船で渡てこの八ツ沼にずっとのぼて来たんだね。
 文政十年の年、初めてここの若宮寺の住職になったとき、最初におこなったのは、境内地の整備と伽藍の整備でした。一番最初に手がけたのは、皆さんが座っているこの上、ごう天井の絵。これは皆川義川定信という狩野派の絵描きさんを呼んで、八十八枚描かせたのです。貝殻、珊瑚など様々な顔料で描いたのがこの狩野派の絵です。わざわざついてきたんです。その人は、盛恬和尚が好きだからついてきたんです。そして、一生懸命描いてくれたのがこの絵です。
 同じようについてきた人がいます。山形は長谷堂出身、名工とうたわれた、粟野音松という人がいます。その人は何をしたかというと、欄間を彫っていったのです。阿吽の龍、これみな彫っていったんですね。丹念に丹念に一木を彫っていったんです。こっちの欄間は二十四孝、親孝行を題材にした欄間が非常に多くあります。この若宮寺には、二十四考の郭巨の鍬堀りや太公望の覆水盆に返らず等をあらわしたものがあります。一度やっとことはもとに戻らないんだ最後まで責任を持ってやりなさいよということなど色々なことを教えてくれています。正面の阿吽の龍を見てください。二匹の龍が荒波の中にいます。上に行くに従って波は穏やかになっています。これは人生を表していて、アーと生まれてから人生の荒波にもまれて、ンと亡くなるまでを描いています。そしてその御霊を後ろの観音様がふねに乗せて、須彌山の世界まで導いていく様子を考えてつくているんですね。
 盛恬和尚は一生懸命堂内の整備を行いました。今は本堂ですが、その当時は講堂、学びの場所でした。一生懸命勉強する人を集めて経典などの勉強を教えたのです。それが寺子屋の始まりだったのです。そうして十一年間を過ごしました。

盛恬和尚再び八ツ沼へ
 そうしていると、山形の成就院の盛諄和尚が亡くなったんです。これはいけないということで十一年間務めたこの若宮寺をやめていきます。そして成就院で六年間を過ごしますが、八ツ沼が恋しくなって、天保十三年の年、成就院を隠居することを宣言したんです。八ツ沼衆が「盛恬和尚、まだ来てけねが、まだ、勉強おしぇでけねが」といい、その八ツ沼の意気込み、勉学にかける努力、人の心、ここに残った自然が盛恬和尚を呼び戻したのです。みんなは、名声をとどろかしている盛恬和尚をまたここの住職に迎え入れることができるというので大変喜びました。今度は二百三名で迎えに行ったんです。久しぶりに戻ってきた盛恬和尚は八ツ沼はやっぱりいい所だなと思い、また一つ事業を興すことを考え、始めたのが鐘楼堂の再建でした。

鐘楼堂の再建と開田事業
 今の鐘楼堂はだいたい150年前に建てられた物です。この鐘楼堂を建てるに当たっては左沢の菅野辰吉という人が、弟子たちも引き連れてきて建てました。なんと七年間かかって建てたものです。七年間の歳月、しかも設計図などはなく、棟梁の頭の中にしかなく、弟子たちは棟梁の言うとおり切ったり削ったりしてやっと作ったのです。高田の大庄屋長岡権四郎家文書には、そのときの様子が書かれています。七年間もかかったんだからよっぽどお金かかったんだべなとおもうべっす。お金であげなかったんでなかったんですね。文書の中には、米何斗、みそ、べべこ何枚、おしめ何枚などという記述があります。おしめなどとあるところを見ると、ついてきた弟子夫婦の間に子どもが生まれたということがわかります。七年間の間村衆もがんばって協力したんだね。
 弘化二年には盛恬和尚は江戸の寛永寺まで行っています。江戸上野の寛永寺で大日経を講義してくださいといわれていったんですね。江戸まで名声が響いていたこの盛恬和尚、数年の間大日経の経典の講義をしてきました。江戸まで歩いていったんですよ。三週間も四週間もかかったことでしょう。江戸で講義を終わってからすぐ戻ってきたかというとそうではなく、大阪までまた歩いて、釣鐘を注文しにいったんです。大阪河内屋五郎左右衛門という人にこの鐘作ってけねがと頼んできました。そしてできあがったのが嘉永三年の時でした。
 ようやくこの鐘が完成して間もない頃、盛恬和尚は、こんどは村のために開田事業をおこしました。天保年間には果沼の薬師堂の周りにあった沼を埋め立てて開田しました。そのほかに慶応元年には五百刈り、または壇の越、お墓だった所を拝んで、整地し開田し、水田を開きました。

多くの人材を育てた寺小屋
 そんな事業をいっぱい重ねて、天保年間に寺子屋を開きました。県内だけかと思ったら大間違い、福島、いわき、郡山あたりからもいっぱいお弟子さんたちがやってきて、三百人以上の生徒さんがここで書道や漢詩を学んだという伝えがあります。一生懸命学んでいってその精神を全国に広げていったわけです。
 巣立っていった人はたくさんいるのですが、夏草に佐竹恒雄さんというお宅がありますが、そこの先祖様で佐竹正詮というお弟子さんは衆議院議員まで立身出世なさいました。盛恬和尚の教えの中から心の精神とか、そういうことを学んでいったんだと思います。
 
素晴らしい景色と伝承
 さて、盛恬和尚さん二回目に八ツ沼に来る時、何で八ツ沼はいい所だって言ったんだべ。それは八ツ沼衆がみんな気持ちのいい人だということ。一生懸命学ぼうとする努力がすこしずつ報われているということ。むかしからあるものを大切にしているということ。そういったことがすべて盛恬和尚にとってすばらしいことだったのだと考えています。
 また、この若宮寺の後ろに春日沼というところがありますが、沼の景色、鴻の森に囲まれた熊野神社、鈴ヶ森に囲まれた春日神社、向かって左手奥に見える若狭山、緑が湖面に映える春、夏、秋、冬。ほんとにきれいなんです。湖面の中には夫婦岩と言われる大小の岩が渇水すると見えてきます。夏、秋、朝早くこの沼の所に出てみると、朝もやがパーッと、まるで天女が羽衣で湖面を掃除しているようです。それから自分たちが一生懸命努力して作った果沼、秋になると黄金色に実った穂が一面に見える景色。ここの鐘楼堂からまちを一望する景色。もう一つ、400年程前にはこの館山にはお城、山城があり、このあたりは戦場と化していました。その一角に七つ井戸というところがあります。その七つ井戸というところから望む景色はまさに壮観です。今言ったことはすべて八ツ沼の七名所と言われるようになりました。そんな自然をもっている八ツ沼を盛恬和尚は大変愛したんだと思います。
 この八ツ沼周辺いろんな事が伝承として残っています。鈴ヶ森の鳥の声、提灯岩、化け石、阿吽の水、沼の変水、また周りには、活地蔵、小関壇の異変、いろんな伝承が残っています。そんな伝承もここに住んでいる人たちみんな孫たちにつたえてきたものです。
 自然にここは街道となって栄えていきます。八日町、七日町、袋町、上町、中宿、寺宿いろんな町があって約百軒が軒を連ねる街になりました。大谷の方には猿田越えの街道、高田には山伏の道、石須部の方におりていく道、石須部からずっと朝日、黒鴨に抜けていく道、ここは、要衝の場所だったんです。

西五百川を潤す水と人の心
 また八ツ沼は水のうまいところで、五本桶とか庵の井戸とかふだに水が出てくるところです。うまい水だぞ。その水が、滑田の方までいってそこででるセリ、これは絶品。これほどうまいセリは日本中探してもどこにもない。香りといい、歯ごたえといい、ほんとにいいセリが出るんだな。
 八ツ沼で暮らすうえでは唯一水も大切でした。穀物も大切でした。しかし、もっともっと水が欲しいということで、源次兵衛堰ということを考えたこともありました。しかし、これは幻に終わりました。でも水をもってこようとして努力した地区がこの西五百川地区にはいっぱいあります。水口堰もそうです。三中堰も松程堰もそうです。みんなその地区でそれぞれ一生懸命努力して生きてきました。その生きてきた証がいま我々が住んでいる西五百川という地区です。
様々な文化・遺産がいっぱい詰まっているこの西五百川という地区、八つ沼という地区をもっともっと知って、よりよい所を一生懸命勉強し、活かしていこうではありませんか。今日の和尚さんの話は初めて寺子屋を開いた人、盛恬和尚の話でした。
登坂 高典さん(若宮寺副住職)
平成10年 
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