あさひまちエコミュージアム|山形県朝日町見学情報データベース
大谷風神祭の歴史2014/08/17 07:08 (C) 朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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所在地 / 〒990-1442 山形県西村山郡朝日町宮宿2265 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」エコミュージアムルーム内 TEL0237-67-2128(月・木休み)
※大黒様写真/撮影 萩原尚季さん(コロン)
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大谷風神祭の歴史について
掘 敬太郎さんのお話(風和会 会長)
■250年以上続く風神祭
風祭りはどこでもやっていた行事。栗木沢でも庵寺から心経様まで行列してやっている。それ位、台風被害は深刻だったといえる。その中で前夜祭として長く続けているのは大谷だけ。250年以上も続いているというのはそんなにないな。
昔は風が吹くと、風除けのまじないとして竹竿に鎌を付けて立てたものだった。風を切って弱める意味がある。菊地和博さんの祭りの本に、奈良の法隆寺の五重の塔の屋根に二本あると書かれていた。やはり風切鎌というそうだ。特に昔は草屋根だったから、1ヵ所抜かれるとみんな抜かれてしまうからどこの家でも高い所に立てた。戦後まもなくまでしていたな。普通の草刈り鎌だった。
また、子供の頃、大風が吹くと、年寄り達が風を追い払うため、大きな声で「ホゥー、ホゥー」と叫んでいたっけな。
江戸時代の『大谷村議定書』によれば、「酒は何義によらず禁酒いたすべき事」とあるけれど、二百十日の風神祭だけは、特令として許されていた。それだけにこの風祭りは、村にとって豊作を祈願する最も重要な行事であることを示しているね。
■風神祭は天神宮の祭りだった
天満宮のことが書いてあるものが残っている。本殿と拝殿と山門と神楽殿、そして周囲には九つの末社があった。
しかし文久3年(1863)に、本殿が焼けてしまった。その時に残った一つの社が大江町柳川の熊野神社に譲ったということが分かっている。現在は、末社のうち稲荷社、風神社、雷神社を一緒にして白山神社境内の別の社に祀ってある。風祭りは、この三つの神様と関係あるから、境内に建てたのではないかと思っている。他の神々は、おそらく白山神社に合祀したのではないか。それについては、はっきり書かれたものがない。
白田八十二(やそじ)さんの書いた『私たちのふる里 大谷の歴史』(昭和62年7月発刊)には、焼跡から焼けこげた天満宮のご神体だろうというものが見つかって、ガラス貼りの箱を作って収めたと書いてある。
氏子役員の方に、毎年本殿に掃除のため入るが御神体のようなものがたくさんあったと聞いた。大谷には、徳川将軍から御朱印をもらった由緒ある十寺社があった。ところが明治になってから、そんなにいらないということになって、そのうち七つが半強制的に白山神社に合祀させられた。明治新政府の方針としてどこの村でもやったこと。これは朝日町史にも載っている。
江戸時代の村の『明細書上帳』がある。それによると天満宮の敷地は一町歩あった。参道を中心として右が白田内記家、左が外記家の屋敷だったといわれている。
内記家の本宅があった所は、渡邉祐一さんの家のあたり、外記家の本宅は立小路のつきあたり亀屋さんの小屋があるあたり。これを基準として、碁盤の目のような町割りをやったといわれている。
お墓も永林寺本堂に向かって左に外記家、右に内記家となっている。左大臣のほうが上なのに左側に外記家の墓があるのが不思議だったが、当時は、本堂から見て右、左なのだそうだ。
■大谷の菅原道真にまつわる伝承
白田家は菅原道真の子孫といわれている。
そもそも大谷の伝承は、西暦901年、右大臣の菅原道真が左遷させられた年に、姫君が落ちのびたとされている。二十何人いた一人の姫君が、最上川をさかのぼり、大谷川を上って大谷に落ち着いたと伝承されている。西暦901年というと大沼浮島も白山神社もすでにあった。
歴史的に話せるのは、菅原道真の五代孝標(たかすえ)の五男孝安(たかやす)が、白田家の初代といわれている。孝標の娘が更級日記の作者だから兄弟にあたる。そして、南北朝時代だった16代安重の時に、最上家の先祖斯波兼頼(しばかねより)に背き、大谷の庄白田に蟄居(ちっきょ)を命じられ、これより氏を白田とし姓を藤原に改め、慎みの意を表している。
内記家、外記家に分かれたのは、19代安植が内記家として、代々大谷の名主を継ぎ、その弟道貞が外記家を継承し、代々白田家の祖先神である天満宮の神官を務めた。(参考『乩補出羽国風土略記』)
姫君の伝承については、あくまでも「そう言われています」というほかないな。
大谷の道は、丁字路も多い。それから食い違い路が多い。それも白田家の先祖が京都風に、碁盤の目のようにし、さらに、立小路、浦小路、横小路などの名称も京都風にしたんだと云われている
■白山神社の風神祭に
風祭りが天神様から白山様のお祭りとなったのは、天満宮が焼けてからということになる。白装束を着るのもまだ社務所がなかったから、南蔵院で着て準備して白山神社まで歩いて行っていた。白い装束は神に仕える最低の位。色のついたものが、位が上になるそうだ。
白山神社の別当であり、神主を代々務めた南蔵院小野家は、元は羽黒山花蔵院の修験で、先達であったが、10代賢心から吉野修験に変えている。これは賢心が、慶安2年(1649)白山権現ご朱印社領受領のため江戸に上った際、世儀寺法印と吉野大峯同行を約束。以後、五人が吉野で修業。大先達、大法印を補任している。
白山神社は、承和7年(840)加賀の白山権現より勧請したと伝えられ、江戸時代には、社領十九石四斗余のご朱印神社として、崇敬されてきた。その別当で神官を代々務めた南蔵院22代小野健之助は、村の収入役を兼ねていた。しかし、小野家では継承者がなく、船渡日月社の田原さんが引き継ぎ、その後豊龍神社の豊嶋さんが受け継ぎ現在に至っている。
■御神輿について
昔は、御神輿は四人で担いだ。約二時間、村中を静々と巡行したものであるが、実に重かったね。行列が止まると、急ぎ杖(つえ)に載せ休むものだった。
ところが、各区から人足が出て担ぐので、背の高低差があって、私は小さいほうだから、特に押しつけられて大変だった。でも神様だからと我慢して文句も言わずにいたけど、その後「とにかく重くてだめだ」ということになり、リヤカーに載せることになったんだ。
(取材/平成24年7月)
堀 敬太郎(ほり けいたろう)氏
昭和3年(1928)大谷生まれ。平成元年より、郷土史セミナー(町立北部公民館事業)世話人代表。平成8年、大谷郷土史学習会「風和会」設立。同会長を務める。朝日町エコミュージアム案内人の会前会長。
→大谷の風神祭
→小径第15集『大谷風神祭』